日々静物画写真

帰ったら雪、戻っても雪・・・一年ぶりの帰盛

f:id:nakatugawa:20130116141102j:plain

 

 故郷、盛岡は、例年冬の降雪が、それほど多くない。大陸からやってくる日本海越えの湿気を含んだ寒気は東北の背骨、奥羽山脈にぶつかって日本海側の青森津軽、秋田、山形に大雪を降らせる。山脈を越えてやってくる寒風は、乾燥していて太平洋側は、大雪にはならない。正月前の年末に雪がまったくないシーズンもめずらしくない。

 

 日本全体が冷え込んでいる今年のふゆは、盛岡も一段と寒いようで、日中の最高気温が氷点付近では雪が溶けることなく積もり、町の中には、さらさらとした雪が降っていた。それでも、盛岡の住人にとって、雪の冬は、当たり前の事で、迎えに来てくれた弟嫁の車から見る町では、車も人も、首都圏の感覚でいえば2拍3拍も、ゆっくりと行き交っていた。

 故郷の友人と飲みかわした夜、30分ほど実家まで降りしきる雪の中を歩いて帰る。夜の町中は人影もなく、雪明かりで、妙に明るく、さらさらの雪をニット帽に積もらせながら、久々の故郷の冬を楽しんだ。

 

 そして、1月14日。盛岡を出た新幹線は、岩手、宮城、福島とずっと降雪の中、さいたまに戻ってみると、盛岡と同じような一面の雪景色。ただ違うのは、降っている雪が湿っていることと、駅前の騒然としたようす。迎えにくるはずの我が妻からの携帯「駐車場から出た所で、車がスリップしてどうにもならない。迎えにいけないのでどうにかして帰って来てほしい。」午前中に戻って来ていたのでタクシー乗り場は、まだ長蛇の列とはなっておらず。成人式帰り、溶けてた雪で白い足袋を黒く濡らした晴れ着のお姉さん達に、先の乗車をゆずりながらも、15分ほどで乗車。

 自宅までの道のりは、大宮台地のはずれの坂がいくつかある。ここでも車がスリップして坂を上れない。それを待つ車がつながり渋滞。ご存知のとおり、午後になると電車の運行中止や高速の渋滞のニュースが流れてくる。

 

 翌朝は、凍った雪の町中では、車がいつもと同じタイミングでブレーキ踏んで滑り、アクセル踏んで滑る。いつもと同じ車間距離でぶつかる。自転車通学のお兄ちゃんは、いつもと同じスピードで飛ばして転ぶ。ヒールのお姉さんが転ぶゾと思う間もなく転ぶ。 「みんな想像力と予知能力なくなったのかなーーー。」

 

 気がついてみると何となく気ぜわしく、さいたまの雪、写真を撮る事忘れていた。

 

f:id:nakatugawa:20130116141149j:plain

 

写真日録

 40年前の写真小僧が写真学生だったとき「毎日一枚の写真を撮れ。」と言われていた。毎日フィルム一本は、撮影するようにとも言われていたので、「毎日一枚の写真を作れ。」ということ。35㍉銀塩フィルム一本は、36コマなのだけれども、TTLがついているだけで、すべてがマニュアルの一眼レフカメラで、この一日一本がかなり難しいことだった。さらに、フィルム現像と印画紙現像(コンタクトプリントとセレクト後のプリント)をしなければ写真にならない訳で、6畳間に畳一枚分の流し台があるだけのアパートでは、毎日この現像作業は、ほぼ不可能であった。

 とはいえ、毎日、首からカメラを提げていたのでシャッターを切る事はできていた。一週に一度づつ、フィルム現像と印画紙現像を2週にわたって行い、やっと写真ができる。という行程を3年間続けていた。この作業を続けていると、まず、シャッターを切る事に快感を感じるようになって、記憶に画像が残るようになってくる。現像作業を行って、画像として現れるときの瞬間がたまらなくなってくる。さらには、「記憶に残る一枚」のプリントを作るための「焼き込み」「覆い焼き」の作業にのめり込むと、プリンティングハイとでも言えそうな感覚に落ち込んで行く。写真をする楽しさのかなりの部分をルーティンワーク化した一連の作業工程が占めていたようにも思う。そして、この行程を続けて行く中で、シャッターを切る瞬間や、写真として画像となったときの確信ができてくることは、確かにいえる。

 ランナーのランニングハイ。画を描く人たちのペインティングハイ。研究に携わる人たちのアカデミックハイ。などなど、その道を突き詰めて行く道程のなかで起きる「一連のことが繋がった感じの恍惚感。」は、簡単に言えば「日々続ける。」なかで起こること。

 でも40年前のあのころ「毎日一枚の写真を撮れ。」ということの意味は、判っていなかった。

 まあ、この年になって判っただけでも良しとしよう。そのような訳で「ふたたびの写真日録」なのです。

 日々更新。日々亢進。   

ふたたびの写真

 40年前の写真小僧が写真学生だったあのころ、漠とした写真家になるのだという夢は、持っていたものの、先行する世代のカメラマンの群れが、我が世の春とばかりに大活躍の時代。おいしい生活、セゾン、PARCO、糸井重里、川崎徹に代表される広告の時代、バブルに先駆ける時代だった。東京へ向かって南行することが、あこがれへの道程だったものの、周回遅れどころか時間切れでレースは既に終わっていた。それでも一線のカメラマンの無給アシスタントになり、その道への足がかりを探る者もいたけれど、多くは、日々のアルバイトに明け暮れ、貧乏暮らしもままならず同級生は多くが離脱していった。

 当時の商業写真を教える講師いわく「貧乏人には、ジュエリーの写真は、撮れんのよ。」 我が育ちの悪さは、東京にやって来てのち、嫌と云うほど身にしみていた。となると残された道は、「コンセプチャル写真」。詳しい説明は省くけれど、銀塩写真の自家現像をやられた方は、ご存知であろう、「アレ」「ブレ」「粗粒子」を気取って「こたつ現像」をやっていた。早い話し、現像の時間管理が面倒で、マスコタンクに入れたモノクロイルムを、こたつの中で、蹴っ飛ばしていただけのこと。「コンセプチャル写真」と言ったところで、森山大道の後追いで、田村シゲル、中平卓馬は、何をやっているのかすら判らなかった。コンセプチャルやるには、頭が悪すぎた。        

 そんな鬱々とした暮らしをしていたけれど、それでも写真する事は楽しかった。

   その頃、世の中は、ビデオの時代に突入していた。家庭用のVHS、ベータマックスが出たばかりの頃である。そして、貧乏ながらも悦楽の写真学生も時間切れで、仕事を探さなければならなくなり、働き口としてあったのは、おなじ「カメラマン」でもテレビカメラのカメラマン。40年前の写真小僧は、ビデオ小僧になったのである。すでにテレビショッピングが始まっており、そのスタジオ収録がスタートとなった。その後、テレビ、ビデオ、教育映画など、いずれにしても「動画」を生業として40年。静止画としての写真を撮る事もたびたびあったけれど、基本はスタッフワークとしての動画であった。

 そして動画の現場を離れた時、特別に意識していた訳ではなかったけれど、手にしたのは、ムービーカメラ、ビデオカメラでもなく、スチールカメラ。その時に思っていたのは「ただ一人できる。」ということ。そして、ふたたび写真を撮り始めてよみがえってきたのは、40年前のあの頃の写真する楽しさだった。

写真にテキストを付けない事について

40年前の写真小僧が写真学校生だったころ、その写真学校は、かなり真面目に写真をやっていて、(その当時もかなり、いいかげんな写真専門学校が多かった。)写真制作の課題が毎週ひとつ以上のペースであった。単写真は、認められず、組写真が基本かつ前提だったのでかなりのハイペースで写真を撮らなければならなかった。そして、その写真の評価は合評会に近い形でなされる。

 当然、写真についての合評では、かなりキツい事をいわれる訳で、写真を撮った本人は、ともすれば言い訳がましく、撮影時の状況や、ねらいを細かに説明を始める。そんなやりとり重ねるうちに、ほぼ必殺のキメ台詞。「口で、そんなことを言ったって、写真に全然,写ってねえじゃねえか。」要するに、「写真は、写真で語れ。」・・・・・そんな事いわれても簡単に写る訳もなく、ただ、うなだれるしかない。

 全員が写っていなければ、なんとなく救われるのだけれど、なかには「写っている奴」「写すことが出来るやつ」がいる。なんか訳がわからなくても、数ヶ月、組み写真作っていると「写っている写真」が判るようになってくる。口で語らなくてもよい写真を見せられると自分の非力さ、能力のなさを感じるばかり。一方では、「何かありそうに写真を見せる。」技(そういう技があるのです。)を持つ奴さえ現れる。いずれにしても、その頃になると脱落者が出てくる。なにしろ自分に「写真で語る。」能力のないことを嫌という程知らされる訳で、写真学校に来なくなるのである。

 残る者は、自分を信じ続けるしかない。「いつか我が身にも写真の神が降りてくる。」と信じ、ひたすら続ける気力があるかどうか。

 

 いずれにしても「写真は、写真で語れ。」が写真作法の基本なのです。

 

 ただし、報道写真やドキュメント写真とtextについては、またあらためて。

銀塩写真について思うこと

 銀塩写真と、わざわざ断らなければいけない時代になってしまった。

 2012年、不特定の100人に聞いた時に「カメラ」といえば、デジタルカメラのことであって、フィルムを使う「フィルムカメラ」をイメージする人は、ほぼゼロだろう。それは、レコード盤とCDの関係にも似ている。

銀塩写真を「写真」とし、デジタル写真は「写真のようなもの」とする、銀塩写真派は、特にプロ写真家に多い。

 

 私こと40年前の写真小僧にとって、写真への入り口は、銀塩写真であった。カメラと言えばニコンF2に50、35、105ミリの3本のレンズ。収入が増えるにつれ買い増してきたレンズは、いまや記念碑となっている。そして、あこがれであったブローニーサイズフィルムを使う中盤カメラを処分した時は、少々胸がいたかった。

 

 フィルムは、100フィート缶を買って20本に分け、フィルム現像、プリント現像も自分でやっていた。カラー写真は、フィルム、現像、プリントともに費用がかかり過ぎ、我が写真といえば、モノクロ写真のみ。全紙100点で構成した写真展らしきもののプリントもすべて自分でやった。いまでも当時からの数百本のネガとコンタクトプリントは、きれいにファイルしてある。

 

 「オリジナルプリント」とよばれる高名な写真家の、印画紙にプリントされたモノクロ写真は、究極の美しさを持っている。自らのオリジナルプリントを作って見たいとさえ、いまでも思う。こうして振り返ってみると、私の写真のルーツは、銀塩写真であり、アイデンティティも銀塩写真にある。だから銀塩写真派の方々がいうところの、様々な銀塩写真の長所については、共感するし、納得もする。むしろ心情的には、銀塩写真派であろうと自分では思う。

 

 しかしである。ビデオを見ればVHSからDVD。音楽はLPからCD。映画もフィルムからデジタルへ。あらがいようのない時の流れである。いまのところ製品の製造が続けられており、映画、写真とも時間と費用をいとわなければ、フィルムをまだ使う事ができる。しかし、10年後、一般人が使えるフィルムや印画紙は、なくなっているであろう。

 

 銀塩写真で育った40年前の写真小僧が、これから銀塩写真を作る事は、おそらくないだろう。そして、あえて言いたい「写真するには、いい時代になった。」と


写真は、真実を写す? その2、

f:id:nakatugawa:20121203234334j:plain

 

 関東地方の平野部が最後の紅葉の季節を迎えている。そんな紅葉の季節を迎えて思い出すのが、この写真。前のシーズンに、雨上がりの野火止の平林寺で撮ったものである。

 

 そのとき同行した氏いわく「本物のモミジは、こんなにきれいじゃない。」「色、足してる!!。本物の写真じゃない。」 

 そこで「本物の写真ってどんなの?」と問い、見せられたのは、コンパクトデジタルカメラで撮った、フラットな調子の茶色の紅葉の写真。

「平林寺で見た紅葉って、色が鮮やかできれいだったよね。?」

「雨上がりの境内、人が少なくて、寒かったけれど、紅葉がキリッとした、はっきりした色で、きれいだった。」

にも関わらずコンデジの茶色の紅葉が本物の写真だというのである。後処理で彩度を上げたりすると嘘の写真ということになってしまうというのである。記憶の中の「きれいな色」は何処に行っていまったのだろう。

 

 これが、「絵」だったら、どんな色を使おうが「この色は、うそだ。」「この絵はうそだ。」などと言われる事は、ほぼゼロである。!

 

 脳科学者の茂木健一郎氏がテレビ番組で紹介するところの「アハ体験映像」。現に今みている画像の一部が変化しているにも関わらず、どこが変化しているのかわからない。というやつである。まばたきもせずにジッと凝視しているにも関わらず、見えない。真実を見ているはずの人間の視覚の不確かなこと。そこにあるものが見えなかったり、無いはずの物が見えたりする。写真を撮るときでさえも、ファインダーの中を良く見ているつもりなのに、事後のチェックで、肝心なところに、大きなゴミがあったりする。これが「ヒトガタ」だったりすると大騒ぎ、心霊写真になったりする。

 

 日常的に良く体験するのが、「ソラ耳」。まずい事が起こったときの、言い訳に使われるが、人間の五感「視」「聴」「触」「味」「嗅」には、それぞれに「ソラ」がつきまとう訳で、人間の感覚自体がどれが本物で、どれが偽物か判らない。にも関わらず「写真は真実を写してなければならない。」といわれるのが、私には、不可解である。

 

 写真は、その時に私が見ていた、時間と空間との記憶である。

写真は、真実を写す? その1、

 そもそもphotographは、ギリシャ語の「光」photograph 「書く,描く」の連結語であって、日本語では「写真」ではなく「光写」とでも訳された方がよかったのである。それが真実を写すもの、「写真」という名前をもらったことが、「写真」の不幸のはじまりかもしれない。

 なにしろ「写真」は、真実を写す。と信じて止まない人が沢山いる。写真を生業とする人たちでさえも、そのように思っている人が沢山いる。

 

 5メートル先に花の群落があったとして、人間の眼で群落を認識して、その中の1輪を見ようとすれば、人間は、5メートル前進して花を見る。カメラでアップを撮ろうとするとき、5メートル位ならば、おじさんカメラマンの望遠レンズでアップが撮れる。

 その時、1輪だけにピントをあわせて、前後をボカすことだってできる。だいたいにしてが、人間の眼は、基本的にパンフォーカスである。前列に並んだ花子ちゃんにピントがあって、後ろにいる太郎君がぼけてた。なんてことは、写真では良くある事だけど、人間の眼はそんな事は、ありえない。

 真夏の炎天下であっても、人間の眼は、葉っぱの裏に隠れた花も、太陽に照らされる花も、どちらもきちんと見る事ができる。けれど写真でこんな状況の花を撮ろうすると、どちらかが真っ黒につぶれるか、真っ白に飛んでしまう。

 まして、デジタルデータになっている写真から、ゴミを消すことなんて、極めて簡単にできてしまう。そんな時代になったので、銀塩写真は、裁判の証拠になるけど、デジタル写真は、証拠にならないなんて、私にとっては、それこそ都市伝説のようなことを、銀塩写真派の人たちが、言うんですが。どなたか裁判に詳しい方、これって本当でしょうか?。

 銀塩写真派の人たちに言わせれば、デジタル写真は、ほぼ真実じゃないってことでしょ。これだけを取り上げてみても、「写真が真実をありのままに写す。」なんて言えます?。

きれいに写れば、いいんじゃないの????

 

f:id:nakatugawa:20121123001112j:plain

 今年の夏、蓮の花の写真を撮っていた。その写真を見た数人いわく「本物の蓮の花は、十分にきれいだけれど、この写真は、本物よりきれいに写っている。」その場では、「ありがとう、ありがとう。本物よりきれいだと言ってもらえるとは、・・・・・」ということで終わりにした。が、しかしである。今風にいえば、「かなり盛ってるね。色とかさ・・・・うそっぽくネー。」と言外にそんな感じ、なのである。

 

 この類のことには、結構、遭遇する。

 女の子に写真を撮ってくれ、とたのまれ「きれいに撮ってね。」というのできれいに撮ってあげると。「この写真は私じゃない。」「きれいに写っている、たしかに私が写っているけど、私じゃない。きれいすぎる。」というのである。花にしろ女の子にしろ、きれいに写っているんだから、いいんじゃないの?・・・・。  そうでは、ないらしいのである。

「で、どんな写真がほんとうの写真?。」と聞いてみると。コンパクトデジカメで撮ったような、ピントが、ぎりぎりでオフ気味の、全体にフラットな、白カブリ気味の、彩度の浅い写真が、写真ということらしい。例えて言えば、携帯で撮った写真というところだろうか。

 

 そう言えば、ほかにも毎日、フラットな画を、沢山、私たちは見ている。

 テレビである。特に、スタジオからの番組は、隅から隅まで、光が回っていて、すべてが見え、人物の顎の下に薄ッスラと影が見えている。メリハリのない画面である。これに慣れてしまっている。芸能人を生で見ると「テレビより、ずうっときれい。」ということが起こるのもこれが原因。   ちなみに女お笑い芸人とか、国営放送のなんてことない普通に見える女性アナウンサー、実際、生で見るとかなりきれいな方、多いです。

 

 それに加えて「写真」という言葉。なにしろ、文字づらが「真実を写す」である。「写真は、真実を写している。」と刷り込まれ、日常的には、フラットな画像に囲まれている。つまり身近なところにたくさん見かける写真が写真であって、それに類しないものは、写真だけれども写真じゃないということなのである。

 

三脚についての余計なお世話

 十年ほど前の雨模様の日に、とある公園で、ビデオに挟み込むためのバラの花を写真撮影をしていたときのこと。普段は、それなりのビデオカメラで数人で撮影しているので、通りすがりの人から声をかけられる事もなかった。けれども、この日は急ぎのワンカットが入り用で、写真ですませる事になり、一人で撮影していたためか、スチールカメラを首から下げていたためか・・・・・(カメラマンのプロを見分ける方法。首からカメラを下げているのは素人。肩にカメラを下げているのがプロ。という都市伝説があるらしく・・・・・・)団塊世代と思われる男性から声をかけられ「やっぱり、いい写真をとるためには、三脚がないといけないそうですよね。三脚は持っていないんですか?」私がなんと答えたのかは、覚えていないけれど、「いい写真には、三脚。」だけは、はっきりと覚えている。

 そして、ちかごろの風光明媚と言われる観光地や、春の桜から、秋の紅葉までの花の名所などなど。私と同年代の団塊世代のカメラおじさんが、あちらこちらに氾濫するようになり、望遠レンズに三脚、その装備に圧倒される。それが原因だと思われるのだけれど、「三脚使用禁止」の看板が各地の神社仏閣、観光地で目につくようになった。三脚持った写真おじさんの傍若無人ブリが、目にあまるためだそうだ。「大口径の望遠レンズになれば、三脚は必要なの。」と写真技術的には、おじさん達の声は察せられるが。

 

 私といえば、屋外で写真を撮影するときに三脚を使うことは、ほとんどない。大体、外に出かけるのに三脚は邪魔くさいし、重い。肩が凝る。アングルを決めるときにカメラを三脚に乗っけて、足を延ばしたり、引っ込めたりしている間にシャッターがどれだけ押せる事か。

 

 それにしても、重装備のカメラおじさんに出会うたびに、あの日の「いい写真には、三脚。」を思い出す。誰が言ったのか、言っているのか? そして、品行正しき、写真おじさんには、言ってあげたい。「三脚ないほうが、写真は、楽しいスよ。」

ふたたびの写真。写真するには、いい時代になっていた。その2

 70年代半ばに写真学生となっていた写真小僧たちの写真するうえでの願望は、写真展をすること、写真集を出す事であった。写真展、写真集への切なる思いは、「写真展、写真集なんかしょうがねーよ。」とまでの屈折した発言に至るほど。

 私の周辺の写真小僧たちは、「売れる写真ではない。」と、自らの写真について適正な自己評価を下すリテラシーを持ち合わせていたために、メジャーな編集者、写真事務所への持ち込みが出来ずにいた。となれば自らのオリジナリティーを自己管理できる道は、写真展と写真集。それも自主企画で・・・・・。しかし、それをするためにはそれなりの額の自己資金が必要なわけで、貧乏学生には、ほぼ道は断たれていた。

 それでも中には、なにかと工面をして中央突破する者もいたのではあるが、写真展にはお客が来ず、写真集は売れない。「写真展、写真集なんかしょうがねーよ。」との発言に至る訳である。

 たとえば演劇人たちは、数週間の稽古の後に公演の日を迎えるわけであるが、観客が客席に一人もいない状態で本番の幕を揚げることができるであろうか。観客が一人もいなければ単なる「通し稽古」である。やはり誰か観客に見て貰うことを前提に稽古を続けている。演劇人がしばしば語る、舞台に立つエクスタシーは、「観客」ありきなのである。

 70年代の写真小僧達も不特定多数の観客を想定して、写真を続けており、その現れが「写真展、写真集」なのである。シャッターを切るときには、ほぼ無心で写真に没頭しているのではあるが、フィルム現像とプリント現像の行程の先には、確実に写真を見てくれる誰かがいるのである。「観客なぞのために写真をしているのではない。」と語る者もいたが、フィルムの入っていないカメラのシャッターを押す事で写真は、始まりも終わりもしない。

 そして、ふたたびの40年後である。「写真するには、いい時代になっていた。」

 今、写真展、写真集を必要としないほど、「写真を見てもらう場」が沢山ある。いまさらこのことを語る必要もないほどの「場」がwebの出現によって出来た。現にわたしは、読んで貰える人、見て貰える人を想定しながらブログに写真とtextをアップし続けている。デジタルで写真をするためのPCは、かつてそれなりの資金が必要であった写真展と写真集もきわめて容易に実現してくれる。あらためて、「写真するには、いい時代になった。」  

ふたたびの写真。写真するには、いい時代になっていた。その1

 やたらと画角や構図にうるさい演出、制作者であった映像製作をリタイヤしたあと。神経は、なんとなく動画に注がれていた(と思っていたのだけれど)気づくとスチールカメラを持ち、ひとりで写真を撮る自分がいた。ビデオであっても一人で作る事ができるのだけれど、スタッフワークで生活の糧として動画を作っていた私には、一人での動画製作は、難しく面倒。  

 テレビカメラマンとして映像製作をスタートしたけれど、原点は、いま思い返しても濃厚な写真を学んだ数年にあることに気づくと、そもそもが写真から入ったのであって、約40年経った今、スタートに戻っただけのことなのだ。

 そして、幸いだったのは、ふたたび写真をはじめた、今の時代が、写真するにはとても良い時代になっていること。いまから40年前に写真を始めた頃は、デジタルの影もなく銀塩の時代。撮影のあと、暗室作業で、フィルム現像とプリント現像をして、やっと撮影の結果を見ることが出来た。暗室作業もフィルム現像は、完全暗室でなければならず、プリント作業も水が使えなければならず、撮影のあとのこれらの作業は憂鬱なものであった。

 それに比べ、今では、シャッターを押した数秒後には、写真を確認でき、さらに撮影を終わってメモリーカードをカメラからPCに移せば、大画面で写真が確認できる。なんと素晴らしいこと。しかもカラーなのだ。暗室作業という憂鬱な作業を経なくても写真を確認できるということは、それだけ写真の『画』に集中できるということでもある。

 写真撮影された結果が、ネガフィルムが残る銀塩写真に比べ、デジタルデータであるという危うさは、あるけれど、すべての作業が明るい部屋で瞬時にできることの素晴らしさを享受しなくて、なんのデジタルなのだ。写真するには、いい時代になった。

「写真するには、いい時代になっていた。」もうひとつは、あらためて。

textを書き始める。

 昨日、11月13日写真をアップ出来なかった。これまでの毎日と同じ手順で写真を投稿するのだけれど「93」の写真データがアップできない。fotolifeならばと直接アップするもこれもできない。どこまでも毎日、写真を続けて更新することがモチベーションになっているので、こんなことで切断されたくない。とりあえずFacebookに「93」をアップすることで「続けること」を担保。

 そして、今日11がつ14日の更新。これまでと同じ手順で「94」がアップ出来た。

しかし「93」には始めてtextを書いておいたので、「93」を追記しようとするが、やはりアップできない。hatena blogと「93」の写真データの何かの相性が悪いような気がする。hatenaサポートの問い合わせメールを送っているので原因が解明されるとは思うけれど。

 明日は、更新できるだろうか。

 これまでブログには写真だけでtextを書いてこなかった。けれど、どうもブログと言う物は、textがないと具合が悪いような物であるような気がする。ということは、私のように一日一点、写真をアップし続ける行為は、ブログという仕組みとは、相性が悪いことのようである。

 写真の下にキャプションのようにtextを書けばいいんじゃないの。何にこだわっているの。と言われるのだけれど、今の私には、腑に落ちないので、できない。写真について直接、語りたくない。写真は写真で解決したいのである。

 そんなことで写真を一日一点アップしてきたけれど、11月10日、「90」で二点アップすることになり。キャプションとして書いたのではないけれど、textを付けてしまった。さらに、今日一日、今夜更新できなかったどうしよう。textを書くしかないのだろうか。書くとすれば、何を書けば良いだろう・・・・・・。と考えていた。

 「94」は、いつものように写真をあげることが出来た、けれど、textが澱りとなって残ってしまい、気持ちが悪い。

 そこで、発作的に新しくtextブログを始めることにした。発作的に始められるのも、hatena blogの良い所なのかな、と思いつつ。

  

 なぜタイトルが「ふたたびの写真日録」なのか、など写真すること主にしながら、書いていきたいと思う次第です。但し、こちらは、日々の更新はノルマにはしないつもり。 textを書くことを続けたことがないので、早いうちに挫折するかもしれません。