日々静物画写真

肖像写真として、ほめられた物ではないが・・・。

 現在、私が住んでいるところは、さいたま市といえど、東京通勤圏にある住宅地で、それなりの買い物をするためには、駅周辺の商店街では、用が足りず、15キロ圏内に6カ所あるショッピングセンターのどこかに出かける。車が日常の足になっている。

 

 いつの頃からだろうか、信号で止まる度にイライラするようになった。気がつかなければよかった。信号、踏切で止まる度に目につくのである。いわゆる「政治家」といわれる人たちの顔写真ポスターである。歩行者用信号の近く、踏切の遮断機の近く、多い所だと3人4人のポスターが、本当に絶妙なところに貼ってある。

 

 イライラした気分で見ていることもあるのだろうけれど、いずれものっぺりした感じの顔写真で、写真としてほめられた代物ではない。出来る限り見ないようにとは思うのだけれど、歩行者の背中の向こうにあるので、いやでも視界に入ってくる。

 

 しかし「写真としてほめられた物ではない。」とは言ったものの、顔写真を撮ったカメラマン氏は、それなりに職務を果しているようだ。

 というのは、この前の衆議院選挙のとき、駅前で街頭演説をしている候補者に出会ったが、後援者であろう取り巻きの方々のほうが余程、貫禄があって、タスキがなければ、候補者が誰が誰やら、まるで判らない。つまりポスターの写真のほうが本人より、まだ存在感がある。写真は真実を写してはいない。という例がここにもあった。

 

 いずれにせよ、何の制約もなく、年中貼ってある、あの顔ポスターなんとかならないものか・・・・。

今度は粋かよクールジャパン。自分で言ったら野暮になる。

 もうずいぶん前のことになる、娘が保育園に通っていた頃の事。毎朝、保育園に娘を送って行くのは、私の役目だった。朝に子供達を待っている保育士さんは、一週ごとに替わるのだけれども、その中のAさんのお迎えの言葉は、「○◯ちゃん、おはよう、今日もがんばろうね。」我が娘だけでなく、すべてのの子供達に。Aさんのいる一週間おなじ言葉をかけてくれる。数週たって、またAさんがお出迎えの当番になると、お迎えの言葉は、「○◯ちゃん、おはよう、今日もがんばろうね。」

 その保育園は、零歳児から受け入れていたので、親離れしていない子の中には、親と離れたくなくてグズる子もいる。Aさんの「○◯ちゃん、おはよう、今日もがんばろうね。」の中には、「おかあさんがお迎えで来るまで、さみしいけど、お友達と一緒に元気で遊んで待っていようね。」そんな感じが、含まれていたので、当時そんなに嫌な感じはしなかった。ただ、「毎日、がんばろうね。だと「がんばろう」のありがたみがなくなるよなアー。」そんな感じで受け取っていた。

 

 ご存知のように、2011年3月11日以来、「がんばろう東北」「絆」。繰り返し、繰り返し使われてる。・・・繰り返し言われても、そんなに頑張り続けられないんじゃないの。

 そして、ご存知のように、20117年7月のロンドンオリンピックがあって、メダリストとなった選手のコメント「応援していただいた方々に勇気を受け取っていただければ、がんばった甲斐があります。」・・・勇気を感じるかどうかは、差し出すあなたが決める事じゃないよ。

 

 少なからず、へそ曲がりな、私であるけれど、違和感を覚えていたら、極めつけが現れた。

 

 政府は来年度予算案に、クール・ジャパン推進のための基金創設として500億円を計上し、クールジャパン推進会議を設置することにしたとのこと。さっぱりして、あかぬけた日本人を表す言葉「粋(いき)」を前面に出したシンボルマークを作り、記念コインを発行するらしい。アニメやファッションなど日本の得意分野で海外ビジネスを拡大させることを狙ってのことらしい。

 

 でもチョッと待って。「クール・ジャパン」って、カッコいいニッポン、さわやかで、あかぬけたニッポンということで。さっぱりして、あかぬけた日本人を表す言葉「粋(いき)」を前面に出すことって、当の本人である日本が言うと「俺ってクールだろ。」「俺って粋だろ。」って言う事なわけで、芸人のキメ台詞。ギャグじゃないの。大体にしてが、自分で自分を「粋だろ。」って「俺って野暮だろ。」って言ってるのと同じことじゃないの。

 そんなことのために、500億円使うって、いよいよ「侘び」「寂び」「粋」は、日本のメインストリームからは、なくなってしまったようだ。

大人の発達障害

 このtext blogも気がついてみるとほぼ1ヶ月更新していない。これまで、少しなりとも写真にまつわる事を書いて来たけれど、今回は、意を決して、写真から離れたことを書いて見る事にしたのです。

   この数年、ニホンの大きな新聞やテレビのニュース、報道番組は見なくなった。

 新聞は20年ずっと同じ物だったけれど、一昔前には名文とされた1面の下のコラム記事がとても汚くなったことがきっかけに、首都圏で買える弱小メジャー紙に換えた。

 テレビでニュースにまつわるものを見なくなったのは、3.11の計画停電がきっかけ。日に数時間の停電を強いられ、通勤電車の本数が少なくなり、医療機器が止められ亡くなった人がでたり、電気が止められ操業出来なくなった零細企業などなど、とても多くの人が犠牲を強いられた。それにも関わらず計画停電に入らなかった、テレビ局は、事の起こる前と同じように24時間、テレビ放送を続けていた。(30年前のオイルショックのときには、深夜放送は中止していた。首都圏でいえば、芸人だらけの番組しかつくれない民放は、2局あれば十分)

 新聞とテレビでニュースとか報道と言われるものをやめて以降、そのような情報は、ネットを探し、それぞれの分野で幾つかのサイト、ブログ、から得るようになった。そして、ラジオ。ネットを通しては、日本中、世界中のラジオを聞く事が出来る。

 

で、これからが本論。そんな中で、このところ定期的に読んでいるでいる連載がある。

 奥村隆 テレビ制作マンが語る発達障害との戦い「息子と僕のアスペルガー物語」

 http://gendai.ismedia.jp/articles/-/33846

 著者である奥村さんの息子が発達障害であることがわかり、現状と対処法を探るうちに、父親の奥村さん自身が身づからの症状に気がついていく。という「発達障害との戦い」を描く連載。

 

自閉症」「アスペルガー症候群」「注意欠陥・多動性障害」「学習障害」などを含む、「ASD」(自閉症スペクトラム)と呼ばれる症状がとりあげられていて。私がはじめてこの記事に触れたとき「大人の発達障害」という言葉に強く印象づけられた。

 ASDの特徴として、主に二つの点が挙げられてる。一つ目は「他人の気持ちが分からない傾向があり、人間関係の構築が苦手である」ということ。二つ目の特徴は「特定のことへのこだわりが強い」ということ。

 文中のASDの症状とそれにまつわる出来事を読んでいると、「これ自分自身のこと。」「これあの人のこと。」と思い当たることが、次々、現れるのです。連載は21回目なのですが、回によっては、私も「ASD』なのでは、とさえ思うことさえあるのです。

 そして、振り返ってみると、私の回りには、いつでも「鬱」の症状や「パニック障害」を抱えた人が、いつもいたことに気づいたのです。

 その人たちは、学校、会社、近隣の中では、少し変わった人たちで、扱いにくいとされていたけれど、おしなべて優しい人たちであったし、こちらが彼らに向かって爆弾を投げつけない限り、感情を露にすることもなかった。周囲の近親者の過剰な保護や、周囲の人間の無自覚な言葉がどれだけ彼らを傷つけて来たか。

 そして、普通の人たちで形成する常識的な集団の中の「社交的」「空気を読む」「常識的」な行動や意識のなかに「閉鎖的で、空気の読めない、非常識な」ことが溢れているのでは、と思われるのです。さらに悪質なのは、その常識的な集団の中に「閉鎖的で、空気の読めない、非常識な」ことに気づいていながら、自覚してない風を装っている人が少なからず、いること。

 もしかすると、「大人の発達障害」とは、見ていながら、見ない振りで埋め尽くされている日本社会の、埋めきれないオーバーフローした部分で、こちらの部分にこそ、あるべき人の姿がはっきりと現れているのかもしれない。

 

卓袱台の上だって写真になる瞬間

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 被写体をそこまで運んではくるけれども、構図までを決めて、このように撮ろうと決めてかかっている訳ではない。このような光のもとで、このような構図で撮ると決めてかかっても写真には、ならない。

 

 習作のように、あらかじめ手本となる図像のあるものでも、そのときの光の具合、加減を見ないと写真にならない。単なる図解写真にしかならない。

 

 いつもそこにあるものであっても、ある時刻に、ある光線のもとで、見えなかった姿や、ただずまいが見える時がくる。

 

 被写体となる物を選ぶときは、被写体となる物に魅入られて手を伸ばす。何でも良い訳ではない。被写体となる物は、あってもなくても良くて、あることに意味もない。

 

 ただ、そこにある空間、そこにある光、そこにある色、形が、美しいと感じられるかどうかだけ。

 卓袱台の上にだって美しい瞬間、空間は出現する。

黒バックに卵

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 40年前の写真小僧が写真学生になったばかりの5月、写真撮影の実習課題として、こんなものがあった。「白バックに卵」「白バックに石炭」「黒バックに石炭」「黒バックに卵」被写体が「卵」と「石炭」で背景が白と黒の色ケント紙。私の記憶では、担当が研究室の助手で、とにかく撮影して紙焼きを提出するように、とのことで、何の事やら課題の意味する所の説明もなかったような気がする。

 写真学生になったばかりとはいえ、「白バックに卵」「黒バックに石炭」は、手強いかなと思えた。けれど「白バックに石炭」「黒バックに卵」は楽勝だろうと撮影、プリントを終えて課題提出。結果は、卵がグレー、石炭がグレー、白バックも黒バックもグレーであるとの評価、再提出となった。はっきり言えば、いまだってこんな課題だされたら4パターンとも合格する自信はない。白と黒だけだって大変なのに、卵と石炭の質感、ケント紙の質感まで言われているわけで、写真学生になって一ヶ月の写真小僧には、太陽を西から昇らせろ、ぐらいの無茶ぶり課題である。

 この課題、再々提出ぐらいまでは、やったように思うが当時の同級生も合格した記憶がなく。いつの間にか課題自体がフェイドアウトしたように思う。(念のためにいえば、モノクロ撮影、モノクロプリントの課題です。これがカラー撮影だと色温度のことなどもからみ、より難度は高くなる。)

 

 という前振りをしておきながら、あえて冒頭の質感不明の「黒バックに卵」の写真。そして、40年後の今も、「白バックに卵」「白バックに石炭」「黒バックに石炭」「黒バックに卵」が写真技術を越えた「写真をする」さまざまな局面で浮かんでくる。

 

 写真について論じる時、カラーであるかモノクロであるか、銀塩であるかデジタルであるかが、きわめて断定的に頻繁に語られる。わたしは、モノクロであるとか、カラーであるとかの不幸も「写真」が真実を写す物であるとの神話から生まれたものであると、思っている。

 

 モノクロであろうとカラーであろうと、重要なのは「光と色」それがある「空間」でそれをどのように「感じ」捉えて、写真としてフィードバックするのか。

 黒は、光の反射率がゼロですべての波長の光を吸収する色で、絵の具の三原色を混ぜると黒になる。一方、すべての波長の光を均質的に含んで強く反射していれば、白に見える。見る人が、いずれかの波長の光色を、弱く、強く、感じるかによって、空間の広がりをどのように感じるかによって、一枚の写真は、違って見える。それで良いのだと思う。

 本来の目論みではなかっただろうが、写真学生になりたての時期に、究極の課題を与えてくれたものだと思う。「白バックに卵」「白バックに石炭」「黒バックに石炭」「黒バックに卵」。

  ちなみに冒頭の卵の写真、「カラー写真」である。

父の写真機

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 十年前に亡くなった父のカメラである。

 我が国最古のカメラメーカーである六桜社製のリリー5年型カメラ。(六桜社とはコニカミノルタの前身、小西六本店のカメラ製造子会社。) このカメラを父が使っていたのを、私は見た記憶がない。父が使っていたことを覚えているのは、ミノルタ二眼レフである。

 

 実家の階段の下の物入れに引伸機やら現像用品、写真用品が詰まっていた。それが写真用品であることが理解出来たのは、私が写真学生になってからのことであり、それ以前には、それらが何をするための物なのかという疑問すら持たなかった。その写真用品の持ち主は、父であったのだが、父がそれらの道具を使う姿を一度も見た事はない。

 写真学生となった時に、それらの道具が、父に問うまでのこともなく写真用品であることは、理解出来た。 写真学校に入った最初の夏に実家の物置でフィルム現像もプリントもしたことを覚えている。現像に必要な暗室用品はすべてそろっていて、東京の六畳一間のアパートでする暗室作業より、はるかに快適だった。

 父は、家族に対しては何も語らなく、結論だけを言う人であった。写真についてもそれが趣味であったのかさえも、それらの道具が自分のものであること以外、語ったことはなかった。しかし、カメラや暗室用品が父のものであったということは、父が若いころに趣味であったとしても写真についてそれなりの強い思いがあったのだろうと思われる。

 

 そしてわたしは、写真学生となり、今、日々写真に憶いを込めている。父が写真に入れ込む姿は、私の記憶にはないけれど、このカメラを見る度に、写真に対する憶いの強さは、父のそれを受け継いでいるからなのではないのかと。同じDNAにあるのだと言えば簡単なのだが。

帰ったら雪、戻っても雪・・・一年ぶりの帰盛

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 故郷、盛岡は、例年冬の降雪が、それほど多くない。大陸からやってくる日本海越えの湿気を含んだ寒気は東北の背骨、奥羽山脈にぶつかって日本海側の青森津軽、秋田、山形に大雪を降らせる。山脈を越えてやってくる寒風は、乾燥していて太平洋側は、大雪にはならない。正月前の年末に雪がまったくないシーズンもめずらしくない。

 

 日本全体が冷え込んでいる今年のふゆは、盛岡も一段と寒いようで、日中の最高気温が氷点付近では雪が溶けることなく積もり、町の中には、さらさらとした雪が降っていた。それでも、盛岡の住人にとって、雪の冬は、当たり前の事で、迎えに来てくれた弟嫁の車から見る町では、車も人も、首都圏の感覚でいえば2拍3拍も、ゆっくりと行き交っていた。

 故郷の友人と飲みかわした夜、30分ほど実家まで降りしきる雪の中を歩いて帰る。夜の町中は人影もなく、雪明かりで、妙に明るく、さらさらの雪をニット帽に積もらせながら、久々の故郷の冬を楽しんだ。

 

 そして、1月14日。盛岡を出た新幹線は、岩手、宮城、福島とずっと降雪の中、さいたまに戻ってみると、盛岡と同じような一面の雪景色。ただ違うのは、降っている雪が湿っていることと、駅前の騒然としたようす。迎えにくるはずの我が妻からの携帯「駐車場から出た所で、車がスリップしてどうにもならない。迎えにいけないのでどうにかして帰って来てほしい。」午前中に戻って来ていたのでタクシー乗り場は、まだ長蛇の列とはなっておらず。成人式帰り、溶けてた雪で白い足袋を黒く濡らした晴れ着のお姉さん達に、先の乗車をゆずりながらも、15分ほどで乗車。

 自宅までの道のりは、大宮台地のはずれの坂がいくつかある。ここでも車がスリップして坂を上れない。それを待つ車がつながり渋滞。ご存知のとおり、午後になると電車の運行中止や高速の渋滞のニュースが流れてくる。

 

 翌朝は、凍った雪の町中では、車がいつもと同じタイミングでブレーキ踏んで滑り、アクセル踏んで滑る。いつもと同じ車間距離でぶつかる。自転車通学のお兄ちゃんは、いつもと同じスピードで飛ばして転ぶ。ヒールのお姉さんが転ぶゾと思う間もなく転ぶ。 「みんな想像力と予知能力なくなったのかなーーー。」

 

 気がついてみると何となく気ぜわしく、さいたまの雪、写真を撮る事忘れていた。

 

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写真日録

 40年前の写真小僧が写真学生だったとき「毎日一枚の写真を撮れ。」と言われていた。毎日フィルム一本は、撮影するようにとも言われていたので、「毎日一枚の写真を作れ。」ということ。35㍉銀塩フィルム一本は、36コマなのだけれども、TTLがついているだけで、すべてがマニュアルの一眼レフカメラで、この一日一本がかなり難しいことだった。さらに、フィルム現像と印画紙現像(コンタクトプリントとセレクト後のプリント)をしなければ写真にならない訳で、6畳間に畳一枚分の流し台があるだけのアパートでは、毎日この現像作業は、ほぼ不可能であった。

 とはいえ、毎日、首からカメラを提げていたのでシャッターを切る事はできていた。一週に一度づつ、フィルム現像と印画紙現像を2週にわたって行い、やっと写真ができる。という行程を3年間続けていた。この作業を続けていると、まず、シャッターを切る事に快感を感じるようになって、記憶に画像が残るようになってくる。現像作業を行って、画像として現れるときの瞬間がたまらなくなってくる。さらには、「記憶に残る一枚」のプリントを作るための「焼き込み」「覆い焼き」の作業にのめり込むと、プリンティングハイとでも言えそうな感覚に落ち込んで行く。写真をする楽しさのかなりの部分をルーティンワーク化した一連の作業工程が占めていたようにも思う。そして、この行程を続けて行く中で、シャッターを切る瞬間や、写真として画像となったときの確信ができてくることは、確かにいえる。

 ランナーのランニングハイ。画を描く人たちのペインティングハイ。研究に携わる人たちのアカデミックハイ。などなど、その道を突き詰めて行く道程のなかで起きる「一連のことが繋がった感じの恍惚感。」は、簡単に言えば「日々続ける。」なかで起こること。

 でも40年前のあのころ「毎日一枚の写真を撮れ。」ということの意味は、判っていなかった。

 まあ、この年になって判っただけでも良しとしよう。そのような訳で「ふたたびの写真日録」なのです。

 日々更新。日々亢進。   

ふたたびの写真

 40年前の写真小僧が写真学生だったあのころ、漠とした写真家になるのだという夢は、持っていたものの、先行する世代のカメラマンの群れが、我が世の春とばかりに大活躍の時代。おいしい生活、セゾン、PARCO、糸井重里、川崎徹に代表される広告の時代、バブルに先駆ける時代だった。東京へ向かって南行することが、あこがれへの道程だったものの、周回遅れどころか時間切れでレースは既に終わっていた。それでも一線のカメラマンの無給アシスタントになり、その道への足がかりを探る者もいたけれど、多くは、日々のアルバイトに明け暮れ、貧乏暮らしもままならず同級生は多くが離脱していった。

 当時の商業写真を教える講師いわく「貧乏人には、ジュエリーの写真は、撮れんのよ。」 我が育ちの悪さは、東京にやって来てのち、嫌と云うほど身にしみていた。となると残された道は、「コンセプチャル写真」。詳しい説明は省くけれど、銀塩写真の自家現像をやられた方は、ご存知であろう、「アレ」「ブレ」「粗粒子」を気取って「こたつ現像」をやっていた。早い話し、現像の時間管理が面倒で、マスコタンクに入れたモノクロイルムを、こたつの中で、蹴っ飛ばしていただけのこと。「コンセプチャル写真」と言ったところで、森山大道の後追いで、田村シゲル、中平卓馬は、何をやっているのかすら判らなかった。コンセプチャルやるには、頭が悪すぎた。        

 そんな鬱々とした暮らしをしていたけれど、それでも写真する事は楽しかった。

   その頃、世の中は、ビデオの時代に突入していた。家庭用のVHS、ベータマックスが出たばかりの頃である。そして、貧乏ながらも悦楽の写真学生も時間切れで、仕事を探さなければならなくなり、働き口としてあったのは、おなじ「カメラマン」でもテレビカメラのカメラマン。40年前の写真小僧は、ビデオ小僧になったのである。すでにテレビショッピングが始まっており、そのスタジオ収録がスタートとなった。その後、テレビ、ビデオ、教育映画など、いずれにしても「動画」を生業として40年。静止画としての写真を撮る事もたびたびあったけれど、基本はスタッフワークとしての動画であった。

 そして動画の現場を離れた時、特別に意識していた訳ではなかったけれど、手にしたのは、ムービーカメラ、ビデオカメラでもなく、スチールカメラ。その時に思っていたのは「ただ一人できる。」ということ。そして、ふたたび写真を撮り始めてよみがえってきたのは、40年前のあの頃の写真する楽しさだった。

写真にテキストを付けない事について

40年前の写真小僧が写真学校生だったころ、その写真学校は、かなり真面目に写真をやっていて、(その当時もかなり、いいかげんな写真専門学校が多かった。)写真制作の課題が毎週ひとつ以上のペースであった。単写真は、認められず、組写真が基本かつ前提だったのでかなりのハイペースで写真を撮らなければならなかった。そして、その写真の評価は合評会に近い形でなされる。

 当然、写真についての合評では、かなりキツい事をいわれる訳で、写真を撮った本人は、ともすれば言い訳がましく、撮影時の状況や、ねらいを細かに説明を始める。そんなやりとり重ねるうちに、ほぼ必殺のキメ台詞。「口で、そんなことを言ったって、写真に全然,写ってねえじゃねえか。」要するに、「写真は、写真で語れ。」・・・・・そんな事いわれても簡単に写る訳もなく、ただ、うなだれるしかない。

 全員が写っていなければ、なんとなく救われるのだけれど、なかには「写っている奴」「写すことが出来るやつ」がいる。なんか訳がわからなくても、数ヶ月、組み写真作っていると「写っている写真」が判るようになってくる。口で語らなくてもよい写真を見せられると自分の非力さ、能力のなさを感じるばかり。一方では、「何かありそうに写真を見せる。」技(そういう技があるのです。)を持つ奴さえ現れる。いずれにしても、その頃になると脱落者が出てくる。なにしろ自分に「写真で語る。」能力のないことを嫌という程知らされる訳で、写真学校に来なくなるのである。

 残る者は、自分を信じ続けるしかない。「いつか我が身にも写真の神が降りてくる。」と信じ、ひたすら続ける気力があるかどうか。

 

 いずれにしても「写真は、写真で語れ。」が写真作法の基本なのです。

 

 ただし、報道写真やドキュメント写真とtextについては、またあらためて。

銀塩写真について思うこと

 銀塩写真と、わざわざ断らなければいけない時代になってしまった。

 2012年、不特定の100人に聞いた時に「カメラ」といえば、デジタルカメラのことであって、フィルムを使う「フィルムカメラ」をイメージする人は、ほぼゼロだろう。それは、レコード盤とCDの関係にも似ている。

銀塩写真を「写真」とし、デジタル写真は「写真のようなもの」とする、銀塩写真派は、特にプロ写真家に多い。

 

 私こと40年前の写真小僧にとって、写真への入り口は、銀塩写真であった。カメラと言えばニコンF2に50、35、105ミリの3本のレンズ。収入が増えるにつれ買い増してきたレンズは、いまや記念碑となっている。そして、あこがれであったブローニーサイズフィルムを使う中盤カメラを処分した時は、少々胸がいたかった。

 

 フィルムは、100フィート缶を買って20本に分け、フィルム現像、プリント現像も自分でやっていた。カラー写真は、フィルム、現像、プリントともに費用がかかり過ぎ、我が写真といえば、モノクロ写真のみ。全紙100点で構成した写真展らしきもののプリントもすべて自分でやった。いまでも当時からの数百本のネガとコンタクトプリントは、きれいにファイルしてある。

 

 「オリジナルプリント」とよばれる高名な写真家の、印画紙にプリントされたモノクロ写真は、究極の美しさを持っている。自らのオリジナルプリントを作って見たいとさえ、いまでも思う。こうして振り返ってみると、私の写真のルーツは、銀塩写真であり、アイデンティティも銀塩写真にある。だから銀塩写真派の方々がいうところの、様々な銀塩写真の長所については、共感するし、納得もする。むしろ心情的には、銀塩写真派であろうと自分では思う。

 

 しかしである。ビデオを見ればVHSからDVD。音楽はLPからCD。映画もフィルムからデジタルへ。あらがいようのない時の流れである。いまのところ製品の製造が続けられており、映画、写真とも時間と費用をいとわなければ、フィルムをまだ使う事ができる。しかし、10年後、一般人が使えるフィルムや印画紙は、なくなっているであろう。

 

 銀塩写真で育った40年前の写真小僧が、これから銀塩写真を作る事は、おそらくないだろう。そして、あえて言いたい「写真するには、いい時代になった。」と


写真は、真実を写す? その2、

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 関東地方の平野部が最後の紅葉の季節を迎えている。そんな紅葉の季節を迎えて思い出すのが、この写真。前のシーズンに、雨上がりの野火止の平林寺で撮ったものである。

 

 そのとき同行した氏いわく「本物のモミジは、こんなにきれいじゃない。」「色、足してる!!。本物の写真じゃない。」 

 そこで「本物の写真ってどんなの?」と問い、見せられたのは、コンパクトデジタルカメラで撮った、フラットな調子の茶色の紅葉の写真。

「平林寺で見た紅葉って、色が鮮やかできれいだったよね。?」

「雨上がりの境内、人が少なくて、寒かったけれど、紅葉がキリッとした、はっきりした色で、きれいだった。」

にも関わらずコンデジの茶色の紅葉が本物の写真だというのである。後処理で彩度を上げたりすると嘘の写真ということになってしまうというのである。記憶の中の「きれいな色」は何処に行っていまったのだろう。

 

 これが、「絵」だったら、どんな色を使おうが「この色は、うそだ。」「この絵はうそだ。」などと言われる事は、ほぼゼロである。!

 

 脳科学者の茂木健一郎氏がテレビ番組で紹介するところの「アハ体験映像」。現に今みている画像の一部が変化しているにも関わらず、どこが変化しているのかわからない。というやつである。まばたきもせずにジッと凝視しているにも関わらず、見えない。真実を見ているはずの人間の視覚の不確かなこと。そこにあるものが見えなかったり、無いはずの物が見えたりする。写真を撮るときでさえも、ファインダーの中を良く見ているつもりなのに、事後のチェックで、肝心なところに、大きなゴミがあったりする。これが「ヒトガタ」だったりすると大騒ぎ、心霊写真になったりする。

 

 日常的に良く体験するのが、「ソラ耳」。まずい事が起こったときの、言い訳に使われるが、人間の五感「視」「聴」「触」「味」「嗅」には、それぞれに「ソラ」がつきまとう訳で、人間の感覚自体がどれが本物で、どれが偽物か判らない。にも関わらず「写真は真実を写してなければならない。」といわれるのが、私には、不可解である。

 

 写真は、その時に私が見ていた、時間と空間との記憶である。

写真は、真実を写す? その1、

 そもそもphotographは、ギリシャ語の「光」photograph 「書く,描く」の連結語であって、日本語では「写真」ではなく「光写」とでも訳された方がよかったのである。それが真実を写すもの、「写真」という名前をもらったことが、「写真」の不幸のはじまりかもしれない。

 なにしろ「写真」は、真実を写す。と信じて止まない人が沢山いる。写真を生業とする人たちでさえも、そのように思っている人が沢山いる。

 

 5メートル先に花の群落があったとして、人間の眼で群落を認識して、その中の1輪を見ようとすれば、人間は、5メートル前進して花を見る。カメラでアップを撮ろうとするとき、5メートル位ならば、おじさんカメラマンの望遠レンズでアップが撮れる。

 その時、1輪だけにピントをあわせて、前後をボカすことだってできる。だいたいにしてが、人間の眼は、基本的にパンフォーカスである。前列に並んだ花子ちゃんにピントがあって、後ろにいる太郎君がぼけてた。なんてことは、写真では良くある事だけど、人間の眼はそんな事は、ありえない。

 真夏の炎天下であっても、人間の眼は、葉っぱの裏に隠れた花も、太陽に照らされる花も、どちらもきちんと見る事ができる。けれど写真でこんな状況の花を撮ろうすると、どちらかが真っ黒につぶれるか、真っ白に飛んでしまう。

 まして、デジタルデータになっている写真から、ゴミを消すことなんて、極めて簡単にできてしまう。そんな時代になったので、銀塩写真は、裁判の証拠になるけど、デジタル写真は、証拠にならないなんて、私にとっては、それこそ都市伝説のようなことを、銀塩写真派の人たちが、言うんですが。どなたか裁判に詳しい方、これって本当でしょうか?。

 銀塩写真派の人たちに言わせれば、デジタル写真は、ほぼ真実じゃないってことでしょ。これだけを取り上げてみても、「写真が真実をありのままに写す。」なんて言えます?。

きれいに写れば、いいんじゃないの????

 

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 今年の夏、蓮の花の写真を撮っていた。その写真を見た数人いわく「本物の蓮の花は、十分にきれいだけれど、この写真は、本物よりきれいに写っている。」その場では、「ありがとう、ありがとう。本物よりきれいだと言ってもらえるとは、・・・・・」ということで終わりにした。が、しかしである。今風にいえば、「かなり盛ってるね。色とかさ・・・・うそっぽくネー。」と言外にそんな感じ、なのである。

 

 この類のことには、結構、遭遇する。

 女の子に写真を撮ってくれ、とたのまれ「きれいに撮ってね。」というのできれいに撮ってあげると。「この写真は私じゃない。」「きれいに写っている、たしかに私が写っているけど、私じゃない。きれいすぎる。」というのである。花にしろ女の子にしろ、きれいに写っているんだから、いいんじゃないの?・・・・。  そうでは、ないらしいのである。

「で、どんな写真がほんとうの写真?。」と聞いてみると。コンパクトデジカメで撮ったような、ピントが、ぎりぎりでオフ気味の、全体にフラットな、白カブリ気味の、彩度の浅い写真が、写真ということらしい。例えて言えば、携帯で撮った写真というところだろうか。

 

 そう言えば、ほかにも毎日、フラットな画を、沢山、私たちは見ている。

 テレビである。特に、スタジオからの番組は、隅から隅まで、光が回っていて、すべてが見え、人物の顎の下に薄ッスラと影が見えている。メリハリのない画面である。これに慣れてしまっている。芸能人を生で見ると「テレビより、ずうっときれい。」ということが起こるのもこれが原因。   ちなみに女お笑い芸人とか、国営放送のなんてことない普通に見える女性アナウンサー、実際、生で見るとかなりきれいな方、多いです。

 

 それに加えて「写真」という言葉。なにしろ、文字づらが「真実を写す」である。「写真は、真実を写している。」と刷り込まれ、日常的には、フラットな画像に囲まれている。つまり身近なところにたくさん見かける写真が写真であって、それに類しないものは、写真だけれども写真じゃないということなのである。

 

三脚についての余計なお世話

 十年ほど前の雨模様の日に、とある公園で、ビデオに挟み込むためのバラの花を写真撮影をしていたときのこと。普段は、それなりのビデオカメラで数人で撮影しているので、通りすがりの人から声をかけられる事もなかった。けれども、この日は急ぎのワンカットが入り用で、写真ですませる事になり、一人で撮影していたためか、スチールカメラを首から下げていたためか・・・・・(カメラマンのプロを見分ける方法。首からカメラを下げているのは素人。肩にカメラを下げているのがプロ。という都市伝説があるらしく・・・・・・)団塊世代と思われる男性から声をかけられ「やっぱり、いい写真をとるためには、三脚がないといけないそうですよね。三脚は持っていないんですか?」私がなんと答えたのかは、覚えていないけれど、「いい写真には、三脚。」だけは、はっきりと覚えている。

 そして、ちかごろの風光明媚と言われる観光地や、春の桜から、秋の紅葉までの花の名所などなど。私と同年代の団塊世代のカメラおじさんが、あちらこちらに氾濫するようになり、望遠レンズに三脚、その装備に圧倒される。それが原因だと思われるのだけれど、「三脚使用禁止」の看板が各地の神社仏閣、観光地で目につくようになった。三脚持った写真おじさんの傍若無人ブリが、目にあまるためだそうだ。「大口径の望遠レンズになれば、三脚は必要なの。」と写真技術的には、おじさん達の声は察せられるが。

 

 私といえば、屋外で写真を撮影するときに三脚を使うことは、ほとんどない。大体、外に出かけるのに三脚は邪魔くさいし、重い。肩が凝る。アングルを決めるときにカメラを三脚に乗っけて、足を延ばしたり、引っ込めたりしている間にシャッターがどれだけ押せる事か。

 

 それにしても、重装備のカメラおじさんに出会うたびに、あの日の「いい写真には、三脚。」を思い出す。誰が言ったのか、言っているのか? そして、品行正しき、写真おじさんには、言ってあげたい。「三脚ないほうが、写真は、楽しいスよ。」