ふたたびの写真。写真するには、いい時代になっていた。その2

 70年代半ばに写真学生となっていた写真小僧たちの写真するうえでの願望は、写真展をすること、写真集を出す事であった。写真展、写真集への切なる思いは、「写真展、写真集なんかしょうがねーよ。」とまでの屈折した発言に至るほど。

 私の周辺の写真小僧たちは、「売れる写真ではない。」と、自らの写真について適正な自己評価を下すリテラシーを持ち合わせていたために、メジャーな編集者、写真事務所への持ち込みが出来ずにいた。となれば自らのオリジナリティーを自己管理できる道は、写真展と写真集。それも自主企画で・・・・・。しかし、それをするためにはそれなりの額の自己資金が必要なわけで、貧乏学生には、ほぼ道は断たれていた。

 それでも中には、なにかと工面をして中央突破する者もいたのではあるが、写真展にはお客が来ず、写真集は売れない。「写真展、写真集なんかしょうがねーよ。」との発言に至る訳である。

 たとえば演劇人たちは、数週間の稽古の後に公演の日を迎えるわけであるが、観客が客席に一人もいない状態で本番の幕を揚げることができるであろうか。観客が一人もいなければ単なる「通し稽古」である。やはり誰か観客に見て貰うことを前提に稽古を続けている。演劇人がしばしば語る、舞台に立つエクスタシーは、「観客」ありきなのである。

 70年代の写真小僧達も不特定多数の観客を想定して、写真を続けており、その現れが「写真展、写真集」なのである。シャッターを切るときには、ほぼ無心で写真に没頭しているのではあるが、フィルム現像とプリント現像の行程の先には、確実に写真を見てくれる誰かがいるのである。「観客なぞのために写真をしているのではない。」と語る者もいたが、フィルムの入っていないカメラのシャッターを押す事で写真は、始まりも終わりもしない。

 そして、ふたたびの40年後である。「写真するには、いい時代になっていた。」

 今、写真展、写真集を必要としないほど、「写真を見てもらう場」が沢山ある。いまさらこのことを語る必要もないほどの「場」がwebの出現によって出来た。現にわたしは、読んで貰える人、見て貰える人を想定しながらブログに写真とtextをアップし続けている。デジタルで写真をするためのPCは、かつてそれなりの資金が必要であった写真展と写真集もきわめて容易に実現してくれる。あらためて、「写真するには、いい時代になった。」