日々静物画写真

ふたたびの写真

 40年前の写真小僧が写真学生だったあのころ、漠とした写真家になるのだという夢は、持っていたものの、先行する世代のカメラマンの群れが、我が世の春とばかりに大活躍の時代。おいしい生活、セゾン、PARCO、糸井重里、川崎徹に代表される広告の時代、バブルに先駆ける時代だった。東京へ向かって南行することが、あこがれへの道程だったものの、周回遅れどころか時間切れでレースは既に終わっていた。それでも一線のカメラマンの無給アシスタントになり、その道への足がかりを探る者もいたけれど、多くは、日々のアルバイトに明け暮れ、貧乏暮らしもままならず同級生は多くが離脱していった。

 当時の商業写真を教える講師いわく「貧乏人には、ジュエリーの写真は、撮れんのよ。」 我が育ちの悪さは、東京にやって来てのち、嫌と云うほど身にしみていた。となると残された道は、「コンセプチャル写真」。詳しい説明は省くけれど、銀塩写真の自家現像をやられた方は、ご存知であろう、「アレ」「ブレ」「粗粒子」を気取って「こたつ現像」をやっていた。早い話し、現像の時間管理が面倒で、マスコタンクに入れたモノクロイルムを、こたつの中で、蹴っ飛ばしていただけのこと。「コンセプチャル写真」と言ったところで、森山大道の後追いで、田村シゲル、中平卓馬は、何をやっているのかすら判らなかった。コンセプチャルやるには、頭が悪すぎた。        

 そんな鬱々とした暮らしをしていたけれど、それでも写真する事は楽しかった。

   その頃、世の中は、ビデオの時代に突入していた。家庭用のVHS、ベータマックスが出たばかりの頃である。そして、貧乏ながらも悦楽の写真学生も時間切れで、仕事を探さなければならなくなり、働き口としてあったのは、おなじ「カメラマン」でもテレビカメラのカメラマン。40年前の写真小僧は、ビデオ小僧になったのである。すでにテレビショッピングが始まっており、そのスタジオ収録がスタートとなった。その後、テレビ、ビデオ、教育映画など、いずれにしても「動画」を生業として40年。静止画としての写真を撮る事もたびたびあったけれど、基本はスタッフワークとしての動画であった。

 そして動画の現場を離れた時、特別に意識していた訳ではなかったけれど、手にしたのは、ムービーカメラ、ビデオカメラでもなく、スチールカメラ。その時に思っていたのは「ただ一人できる。」ということ。そして、ふたたび写真を撮り始めてよみがえってきたのは、40年前のあの頃の写真する楽しさだった。