日々静物画写真

銀塩写真について思うこと

 銀塩写真と、わざわざ断らなければいけない時代になってしまった。

 2012年、不特定の100人に聞いた時に「カメラ」といえば、デジタルカメラのことであって、フィルムを使う「フィルムカメラ」をイメージする人は、ほぼゼロだろう。それは、レコード盤とCDの関係にも似ている。

銀塩写真を「写真」とし、デジタル写真は「写真のようなもの」とする、銀塩写真派は、特にプロ写真家に多い。

 

 私こと40年前の写真小僧にとって、写真への入り口は、銀塩写真であった。カメラと言えばニコンF2に50、35、105ミリの3本のレンズ。収入が増えるにつれ買い増してきたレンズは、いまや記念碑となっている。そして、あこがれであったブローニーサイズフィルムを使う中盤カメラを処分した時は、少々胸がいたかった。

 

 フィルムは、100フィート缶を買って20本に分け、フィルム現像、プリント現像も自分でやっていた。カラー写真は、フィルム、現像、プリントともに費用がかかり過ぎ、我が写真といえば、モノクロ写真のみ。全紙100点で構成した写真展らしきもののプリントもすべて自分でやった。いまでも当時からの数百本のネガとコンタクトプリントは、きれいにファイルしてある。

 

 「オリジナルプリント」とよばれる高名な写真家の、印画紙にプリントされたモノクロ写真は、究極の美しさを持っている。自らのオリジナルプリントを作って見たいとさえ、いまでも思う。こうして振り返ってみると、私の写真のルーツは、銀塩写真であり、アイデンティティも銀塩写真にある。だから銀塩写真派の方々がいうところの、様々な銀塩写真の長所については、共感するし、納得もする。むしろ心情的には、銀塩写真派であろうと自分では思う。

 

 しかしである。ビデオを見ればVHSからDVD。音楽はLPからCD。映画もフィルムからデジタルへ。あらがいようのない時の流れである。いまのところ製品の製造が続けられており、映画、写真とも時間と費用をいとわなければ、フィルムをまだ使う事ができる。しかし、10年後、一般人が使えるフィルムや印画紙は、なくなっているであろう。

 

 銀塩写真で育った40年前の写真小僧が、これから銀塩写真を作る事は、おそらくないだろう。そして、あえて言いたい「写真するには、いい時代になった。」と