日々静物画写真

きれいに写れば、いいんじゃないの????

 

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 今年の夏、蓮の花の写真を撮っていた。その写真を見た数人いわく「本物の蓮の花は、十分にきれいだけれど、この写真は、本物よりきれいに写っている。」その場では、「ありがとう、ありがとう。本物よりきれいだと言ってもらえるとは、・・・・・」ということで終わりにした。が、しかしである。今風にいえば、「かなり盛ってるね。色とかさ・・・・うそっぽくネー。」と言外にそんな感じ、なのである。

 

 この類のことには、結構、遭遇する。

 女の子に写真を撮ってくれ、とたのまれ「きれいに撮ってね。」というのできれいに撮ってあげると。「この写真は私じゃない。」「きれいに写っている、たしかに私が写っているけど、私じゃない。きれいすぎる。」というのである。花にしろ女の子にしろ、きれいに写っているんだから、いいんじゃないの?・・・・。  そうでは、ないらしいのである。

「で、どんな写真がほんとうの写真?。」と聞いてみると。コンパクトデジカメで撮ったような、ピントが、ぎりぎりでオフ気味の、全体にフラットな、白カブリ気味の、彩度の浅い写真が、写真ということらしい。例えて言えば、携帯で撮った写真というところだろうか。

 

 そう言えば、ほかにも毎日、フラットな画を、沢山、私たちは見ている。

 テレビである。特に、スタジオからの番組は、隅から隅まで、光が回っていて、すべてが見え、人物の顎の下に薄ッスラと影が見えている。メリハリのない画面である。これに慣れてしまっている。芸能人を生で見ると「テレビより、ずうっときれい。」ということが起こるのもこれが原因。   ちなみに女お笑い芸人とか、国営放送のなんてことない普通に見える女性アナウンサー、実際、生で見るとかなりきれいな方、多いです。

 

 それに加えて「写真」という言葉。なにしろ、文字づらが「真実を写す」である。「写真は、真実を写している。」と刷り込まれ、日常的には、フラットな画像に囲まれている。つまり身近なところにたくさん見かける写真が写真であって、それに類しないものは、写真だけれども写真じゃないということなのである。

 

三脚についての余計なお世話

 十年ほど前の雨模様の日に、とある公園で、ビデオに挟み込むためのバラの花を写真撮影をしていたときのこと。普段は、それなりのビデオカメラで数人で撮影しているので、通りすがりの人から声をかけられる事もなかった。けれども、この日は急ぎのワンカットが入り用で、写真ですませる事になり、一人で撮影していたためか、スチールカメラを首から下げていたためか・・・・・(カメラマンのプロを見分ける方法。首からカメラを下げているのは素人。肩にカメラを下げているのがプロ。という都市伝説があるらしく・・・・・・)団塊世代と思われる男性から声をかけられ「やっぱり、いい写真をとるためには、三脚がないといけないそうですよね。三脚は持っていないんですか?」私がなんと答えたのかは、覚えていないけれど、「いい写真には、三脚。」だけは、はっきりと覚えている。

 そして、ちかごろの風光明媚と言われる観光地や、春の桜から、秋の紅葉までの花の名所などなど。私と同年代の団塊世代のカメラおじさんが、あちらこちらに氾濫するようになり、望遠レンズに三脚、その装備に圧倒される。それが原因だと思われるのだけれど、「三脚使用禁止」の看板が各地の神社仏閣、観光地で目につくようになった。三脚持った写真おじさんの傍若無人ブリが、目にあまるためだそうだ。「大口径の望遠レンズになれば、三脚は必要なの。」と写真技術的には、おじさん達の声は察せられるが。

 

 私といえば、屋外で写真を撮影するときに三脚を使うことは、ほとんどない。大体、外に出かけるのに三脚は邪魔くさいし、重い。肩が凝る。アングルを決めるときにカメラを三脚に乗っけて、足を延ばしたり、引っ込めたりしている間にシャッターがどれだけ押せる事か。

 

 それにしても、重装備のカメラおじさんに出会うたびに、あの日の「いい写真には、三脚。」を思い出す。誰が言ったのか、言っているのか? そして、品行正しき、写真おじさんには、言ってあげたい。「三脚ないほうが、写真は、楽しいスよ。」

ふたたびの写真。写真するには、いい時代になっていた。その2

 70年代半ばに写真学生となっていた写真小僧たちの写真するうえでの願望は、写真展をすること、写真集を出す事であった。写真展、写真集への切なる思いは、「写真展、写真集なんかしょうがねーよ。」とまでの屈折した発言に至るほど。

 私の周辺の写真小僧たちは、「売れる写真ではない。」と、自らの写真について適正な自己評価を下すリテラシーを持ち合わせていたために、メジャーな編集者、写真事務所への持ち込みが出来ずにいた。となれば自らのオリジナリティーを自己管理できる道は、写真展と写真集。それも自主企画で・・・・・。しかし、それをするためにはそれなりの額の自己資金が必要なわけで、貧乏学生には、ほぼ道は断たれていた。

 それでも中には、なにかと工面をして中央突破する者もいたのではあるが、写真展にはお客が来ず、写真集は売れない。「写真展、写真集なんかしょうがねーよ。」との発言に至る訳である。

 たとえば演劇人たちは、数週間の稽古の後に公演の日を迎えるわけであるが、観客が客席に一人もいない状態で本番の幕を揚げることができるであろうか。観客が一人もいなければ単なる「通し稽古」である。やはり誰か観客に見て貰うことを前提に稽古を続けている。演劇人がしばしば語る、舞台に立つエクスタシーは、「観客」ありきなのである。

 70年代の写真小僧達も不特定多数の観客を想定して、写真を続けており、その現れが「写真展、写真集」なのである。シャッターを切るときには、ほぼ無心で写真に没頭しているのではあるが、フィルム現像とプリント現像の行程の先には、確実に写真を見てくれる誰かがいるのである。「観客なぞのために写真をしているのではない。」と語る者もいたが、フィルムの入っていないカメラのシャッターを押す事で写真は、始まりも終わりもしない。

 そして、ふたたびの40年後である。「写真するには、いい時代になっていた。」

 今、写真展、写真集を必要としないほど、「写真を見てもらう場」が沢山ある。いまさらこのことを語る必要もないほどの「場」がwebの出現によって出来た。現にわたしは、読んで貰える人、見て貰える人を想定しながらブログに写真とtextをアップし続けている。デジタルで写真をするためのPCは、かつてそれなりの資金が必要であった写真展と写真集もきわめて容易に実現してくれる。あらためて、「写真するには、いい時代になった。」  

ふたたびの写真。写真するには、いい時代になっていた。その1

 やたらと画角や構図にうるさい演出、制作者であった映像製作をリタイヤしたあと。神経は、なんとなく動画に注がれていた(と思っていたのだけれど)気づくとスチールカメラを持ち、ひとりで写真を撮る自分がいた。ビデオであっても一人で作る事ができるのだけれど、スタッフワークで生活の糧として動画を作っていた私には、一人での動画製作は、難しく面倒。  

 テレビカメラマンとして映像製作をスタートしたけれど、原点は、いま思い返しても濃厚な写真を学んだ数年にあることに気づくと、そもそもが写真から入ったのであって、約40年経った今、スタートに戻っただけのことなのだ。

 そして、幸いだったのは、ふたたび写真をはじめた、今の時代が、写真するにはとても良い時代になっていること。いまから40年前に写真を始めた頃は、デジタルの影もなく銀塩の時代。撮影のあと、暗室作業で、フィルム現像とプリント現像をして、やっと撮影の結果を見ることが出来た。暗室作業もフィルム現像は、完全暗室でなければならず、プリント作業も水が使えなければならず、撮影のあとのこれらの作業は憂鬱なものであった。

 それに比べ、今では、シャッターを押した数秒後には、写真を確認でき、さらに撮影を終わってメモリーカードをカメラからPCに移せば、大画面で写真が確認できる。なんと素晴らしいこと。しかもカラーなのだ。暗室作業という憂鬱な作業を経なくても写真を確認できるということは、それだけ写真の『画』に集中できるということでもある。

 写真撮影された結果が、ネガフィルムが残る銀塩写真に比べ、デジタルデータであるという危うさは、あるけれど、すべての作業が明るい部屋で瞬時にできることの素晴らしさを享受しなくて、なんのデジタルなのだ。写真するには、いい時代になった。

「写真するには、いい時代になっていた。」もうひとつは、あらためて。

textを書き始める。

 昨日、11月13日写真をアップ出来なかった。これまでの毎日と同じ手順で写真を投稿するのだけれど「93」の写真データがアップできない。fotolifeならばと直接アップするもこれもできない。どこまでも毎日、写真を続けて更新することがモチベーションになっているので、こんなことで切断されたくない。とりあえずFacebookに「93」をアップすることで「続けること」を担保。

 そして、今日11がつ14日の更新。これまでと同じ手順で「94」がアップ出来た。

しかし「93」には始めてtextを書いておいたので、「93」を追記しようとするが、やはりアップできない。hatena blogと「93」の写真データの何かの相性が悪いような気がする。hatenaサポートの問い合わせメールを送っているので原因が解明されるとは思うけれど。

 明日は、更新できるだろうか。

 これまでブログには写真だけでtextを書いてこなかった。けれど、どうもブログと言う物は、textがないと具合が悪いような物であるような気がする。ということは、私のように一日一点、写真をアップし続ける行為は、ブログという仕組みとは、相性が悪いことのようである。

 写真の下にキャプションのようにtextを書けばいいんじゃないの。何にこだわっているの。と言われるのだけれど、今の私には、腑に落ちないので、できない。写真について直接、語りたくない。写真は写真で解決したいのである。

 そんなことで写真を一日一点アップしてきたけれど、11月10日、「90」で二点アップすることになり。キャプションとして書いたのではないけれど、textを付けてしまった。さらに、今日一日、今夜更新できなかったどうしよう。textを書くしかないのだろうか。書くとすれば、何を書けば良いだろう・・・・・・。と考えていた。

 「94」は、いつものように写真をあげることが出来た、けれど、textが澱りとなって残ってしまい、気持ちが悪い。

 そこで、発作的に新しくtextブログを始めることにした。発作的に始められるのも、hatena blogの良い所なのかな、と思いつつ。

  

 なぜタイトルが「ふたたびの写真日録」なのか、など写真すること主にしながら、書いていきたいと思う次第です。但し、こちらは、日々の更新はノルマにはしないつもり。 textを書くことを続けたことがないので、早いうちに挫折するかもしれません。